2012年05月06日

神事か? 懲罰か?

仏教家のひろさちや氏曰く、日本人の「ダラダラ働き」は天皇自らお田植えされることに始まる新嘗祭にみるように、働くことを「神事」と扱うという、日本古来の労働観が影響しているのではないかと言っている。
働くことを神事とするから、ダラダラが生じるのだと。

http://www.toyokeizai.net/life/column/detail/AC/f5fb229271fe72138cbf4b6ef9f71f73/


氏は、その「ダラダラ」を無くすには、欧米的な労働懲罰説になった方が良いのではないかと提案している。

本当にそうだろうか? 罰だと思ったら、「やっているふり」だけするなど、むしろ、もっとひどくなりそうに思うのだが。
第一、どうやってそういう罰を受けることになる「罪」を犯していると日本人に刷り込むのであろうか?
生きていることが罪だという教えが、仏教の中にあるのだろうか?

生きるためには食べねばならず、そのためには何か活動をせねばならない。その活動は何でもよいのだが、他人に迷惑のかからないことを考えれば、自ずと「働く」という事になる。

仏教の世界では、その「働く」が来世への導きという布教活動であり、それを有難いと思うところに、「お布施」という対価機能が存在している。僧侶が托鉢に回るのは、自らの導きの力を鍛えるためではないのか?

生きていることが「罪」であり、生まれた時から「罰」を受け、それを贖うためにー心腐乱に金儲けだけを考え、目先きの利益に目を奪われ企業買収にあけくれ、リーマンショックに見るように、社会において一番守らねばいけない人と人との信頼関係をも踏みにじつてしまうことにブレーキを用意できていない「懲罰説」に、なぜこともあろうに氏が賛同するのか理解できない。

話を戻すが、「ダラダラ」には、団結力を高めるなど意味のある場合もある。神事であうろとなかろうと、人間という生きものは効果のないことは絶対にやらないものだ。
「ダラダラ」を《組織》として防ぐには、その「ダラダラ」には《組織》としてどういう意味があるのかを真剣に考えることである。
すると、ひょっとしたら、一見ダラダラとした時間の流れも、場が熟すための時間であったりもするものだ。

風土に馴染まない思想は、かえって人々に生きる迷いと、苦しさを持ち込むのではないか。
そういうことに、作務を尊い活動としている仏教思想の中で、仏教家である氏はどういう答えを用意できるのだろうか。





posted by 千 at 10:24| Comment(0) | お勧めの一冊
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